Biography

経済学者 坂本弥三郎。福山に生まれ、欧州に八年学び、神戸大学経済学部の礎を築いた。八十六歳に至るまで、教育と研究の第一線に立ち続けた一生。

弥三郎先生の生涯

坂本弥三郎は、明治の中頃、広島県福山の地に生まれた。

長じて上京し、大正六年、東京高等商業学校(現・一橋大学)の専攻部を卒業。ただちに神戸へ移り、神戸大学経済学部の前身である神戸高等商業学校に職を得た。ここが、生涯を捧げることになる学舎との出会いであった。

大正八年、同校教授に昇任すると同時に欧州へ渡り、英・仏・独の三国を中心に、八年の長きにわたって研究に没頭した。帰国ののちは、神戸商業大学、神戸経済大学、そして新制の神戸大学へと、学校が名を変えるたびにその礎を築き、停年に至るまで一貫して母校で教鞭を執り続けた。その在職は、実に四十余年に及ぶ。

新制神戸大学の発足にあたっては初代の経済学部長に、大学院の設置にあたっては初代の経済学研究科長に就任した。さらに、国立大学で初めての夜間開講となる第二学部の創設にも、設立準備委員として献身した。今日の神戸大学経済学部があるかたちは、弥三郎の尽力の上に築かれている。加えて、広島大学政経学部や南山大学大学院、神戸学院大学の創設にも参画し、その学問の裾野を各地へ広げた。

学問においては、アダム・スミスの経済学に深く分け入り、その『経済学講義』における自然価格論を主題とした論文により、経済学博士の学位を得た。研究の射程は、ペティ、ノース、スミス、リカードゥら古典学派から、ケインズ、ヒックス、さらには経済成長理論にまで及んだ。寡作ではあったが、一篇一篇が珠玉と評された。透徹した論理と、厳格でありながら温厚なその学風は、多くの門下を育てた。昭和三十五年には日本学術会議の会員に選ばれ、わが国の経済学界において常に指導的な位置にあった。

停年ののちも、その歩みは止まらなかった。関西大学、南山大学、神戸学院大学、大阪経済法科大学へと教壇を移し、八十六歳に至るまで、教育と研究の第一線に立ち続けた。門下からは数多くの俊英が輩出し、学界と実業界の各所で活躍している。

昭和五十六年二月、その生涯を閉じた。永年の功績に対し、勲二等瑞宝章が贈られている。教育の一すじ道を、地道に、そして一途に歩き通した一生であった。

この評伝は、人事興信録の登載記事と、葬儀に捧げられた二通の弔辞(其の一其の二)をもとに、家族のために編んだものです。生年や在職年など細部には原本間で表記の揺れがあり、なお確認を要する箇所があります(下記〔編者注〕)。

人事興信録 登載記事Who's Who

『人事興信録』に収められた坂本弥三郎の記事より。原文の表記をできるだけ残し、判読に確信の持てない箇所は〔判読保留〕とした。

坂本 弥三郎(さかもと やさぶろう)

ご子息・ご息女

※ 名は「俊」(Ben 確認)。人事興信録の細字では「俊三」とも読めるため、原本で最終確認予定。

原本Original

人事興信録 登載記事登載記事 人事興信録 記事と案内状記事・案内状
〔編者注・要確認〕 弔辞には「大正六年 東京高等商業学校 専攻部 卒業」「八十六歳まで現役」とあり、逝去が昭和五十六年(一九八一年)であることから、生年は明治二十年代(一八九五年頃)と推定されます。書き起こしの過程で「明治三十七年」と読んだ箇所は誤読の可能性が高く、生年は本ページでは断定していません。原本にてご確認ください。